狭筵

はい

葉書を書く

12月30日から正月3日、つまり先ほどまでダラダラと過ごしていた。ただだただらしていたらまだ良かったのだがずっと本を読んでいた。友人や家族親戚と酒を飲む機会以外は、延々と京極夏彦の「百鬼夜行シリーズ」を頭から読んで今『鉄鼠の檻』を読み終えたところだ。眠くなったら寝てまた起きて読んで、時たま酒を飲んで…。段々苦しくなってくる。頭が重い。将来に対する不安を抱えたまま読む。すべきことは放置している。一体明日から職場の人と何を話しどう接すればいいのか。本の読み過ぎでどうしたらいいのかわからない。榎木津だとか関口のような芝居じみた・・・ふだん私は小説は読まない。正月しか。どこでも止まらず頭が痛くなる。
というような感じだったのだが風呂掃除したら一発で治った。いつだって大丈夫だったので明日だって大丈夫なのだろう。そうする。風呂掃除。ただ風呂掃除をしなければ前段のような不安はかき消されることなく、風呂掃除する以前のまま突っ切るのも人生面白いのだろうが私の体質では風呂掃除で将来というか明日への不安が払拭されてしまう。凡俗だがこれでいいだろうしこうすべきだと思うしこうにしかならないとも思う。
あとは葉書をかくということだ。52円で沖縄まで届く。手紙を書く。これで風呂掃除と同じになる。というか風呂掃除よりも効率がいい。小説を読み過ぎて人と話したり仕事をするのが億劫になったさいには葉書を誰かに投書すべきなのだ。とはいえビートルズではないが誰でも良いってわけじゃないだろう。例えば仕事でお世話になった人に送る。あるいは投宿した旅館に。後者の場合は小さな街に昔からある「○○旅館」みたいなのがいい。ここには印や名字が入る。駅前に昔からある旅館でかつては旅行者で賑わい現在では建設業者の出入りで持っているような家族経営の旅館だ。こうした所に出張に行った後に葉書で御礼を伝える。書札礼は完璧にする。そして絵葉書がいいだろう。そんなに書くことは多くない。この場合、御礼を伝えられたらそれでいいし、それで気分が優れるならばそれでいい。
年賀状は最近書いたし年賀状を書くことは個人的には重要だと思っている。最近は「虚礼廃すべし」という意見があるそうだが、個人的には年賀状は出したい。だがここでは無意味だ。私の昼夜を問わない京極夏彦の読み過ぎ(次の『絡新婦の理』を読み始めてしまった)に起因する気分の塞がりに対して効果的ではない。これはどちらかというと、職場で人と話すという営為に近い。葉書を書くこととは近そうでかなり異なる所作といえるだろう。