狭筵

はい

メイド

数年前のメイドブームほどグロテスクなものはなかった。

メイドというのは、メイドという仕組みは本来身分制度と密接にかかわるものだ。

しかしゼロ年代の日本ではメイドとそれを賞玩する者との間に身分的なつながりが希薄であり、メイドとの関係はかなりあいまいな、おそらくお金を支払っての関係性がもっとも強いというものだった。

そこに身分差や真の意味での格差は無かった。私たちは戦後日本を生き、まがりなりにも法の元に平等だ。近代より以前の確実にあった身分差、解りやすく言えば士農工商的なものとは無自覚に生きていける。もちろん貧富の差はあるが、身分差は、少なくとも近代以前より低減した時代なのだ。

そうした世代の人間がメイドを賞玩した時代がゼロ年代だった。誠にヴァーチャルである。

真にメイドに「萌え」るためには、そうした近代以前の厳然とした身分差に敏感でなければならなかった。

その都度お金を払って「おかえりなさいご主人さま!」と言われる。これは本来のメイドのありかたと一見似ているようで、真っ向から対立する有りようだ。ゼロ年代のメイドは、メイドを利用したものは、これに気付けなかった。これに自覚的であった者以外は真にメイドを愉しんだとは言えまい。

そしてこれはすなわちこれは私たちが近代以降に成し遂げてきた権利の獲得を放擲するものだ。例えば、どんな格差があっても国政選挙は一人一票だ。こうした問題と重なる話だ。

可愛い恰好や仕草やセリフに「萌え」ることは当然悪いことではないが今私たちがどんな時代に生きているかは敏感であるべきだ。メイドブームというものは骨格に致命的な誤謬があり、他の「可愛い」との競合にはかならずしも強く立てず、他の「可愛い」と結びつきながら解消していくのだろう。