狭筵

はい

樺太

ひょんなことから、樺太から引き揚げてきたというお婆さんと会った。

95歳だという。1945年、引き上げの時は26歳という計算になる。

大学時代の友人に樺太をフィールドにしている者がおり、地名や当時の状況をまったく知らないわけではなかったため、私はお婆さんといろいろ話をすることができた。

恵須取(えすとる)の街に住んだという。昭和5年(1930)の恵須取大火をはっきりと記憶していた。お婆さんは恵須取を「えすとり」と発音していたが、そうした言葉の揺れが当時もあったのだろうか。親は製紙工場に勤めた。

 

印象深かったのは、引き揚げてからのちの話だ。北海道の、山脈沿いのぎりぎりの土地に入植した。いわゆる戦後開拓というやつだ。3人の子どもを連れてのことだった。

これはもう言葉ではなかなか言えないんだが、お婆さんの話しぶり、言葉を時に詰まらせ、時に私の腕に手を添えて話す口ぶり、本当に苦しかったのだろう。孫もひ孫もいるそうだが、子どもを充分に学校に行かせられなかったことを今でも悔やんでいるそうだ。

 

 

ボクサー輪島功一樺太出身である。引退してからずっと後、ひょうきんなキャラクターで具志堅やガッツ石松とテレビに出演することが多くなった。

そんなバラエティ番組で、こんなやりとりを見かけた。

 

誰か「輪島さんご出身はどこなんですか?」

輪島「樺太

他の人「えー!(笑い声)」

 

このやり取りがあったことが今猛烈に悲しい。

どうしてこれが笑い話になるのだろうか。引き揚げやその後の暮らしの、言葉で表現できない重さや鈍さ、苦しみがまったく捨象されてしまっている。

これは輪島の根っからの底抜けな明るさに担保されたやりとりだ。私たちは実はそこに甘えてしまっている。

最後ちょっとお婆さんの話と離れてしまったけれど、昭和は確かに遠くなったが、私たち自らで遠ざけてしまっていることがあるのではないか。ちょっとしたところに、まだ戦前の樺太の話をできる人がいる。

そしてやがては、戦前日本だけでなく、その後の時代について語り部がいなくなっていくだろう。なんというか、アンテナ張って、色々と興味関心を持っておこうと思う。