狭筵

はい

歩く

歩くという行為に信頼を置いている。おそらく、ほとんどの人類のもっともベーシックな移動手段であっただろうからだ。

 

今では車や飛行機などものすごいスピードの移動手段がある。でもそれはあくまで特殊で、ここ最近の技術だ。また「走る」という営為もあるが、これは「歩く」よりも短い時間しか継続できずすぐ疲れてしまう。
例えば人類が全世界にその版図を広げた何十万年前の時代、移動手段は間違いなく徒歩だっただろう。その時代であっても「走る」営為は短期間には効果をあげようが、老若男女が一体となって移動する場合、「走る」のは移動に不向きだ。実は徒歩の方が確実に効率がいい。
遠い先祖もあちこち歩いていたのだろう。そう想像すると自分の歩くという営為にもなんだか変だが自信が持てる。

 

ウォーキングが注目されて久しい。肉体的な健康にいいのはもちろん、ストレス解消や、あまつさえ欝にも効果があるという話をテレビで見聞きする。真偽はともかく、歩くという営為が好きな私には嬉しい話だ。

 

ここからは比喩の話。よく目標を立てる時「全力で突っ走ります」などという人がいる。別に悪い話じゃないのだが、どこかで息切れしてしまわないか心配になる。「走る」ってのはどこかで無理しているのではないかと思う。完全に語感の話で恐縮だが「一歩一歩、歩んでいきます」の方が、その人を安心して見ていられる。

こうした雰囲気は言葉に出さずとも感じる場合がある。全力で突っ走って生きている人。どこかで疲れてしまわないか心配になる。いつもじっくりと進んでいく人。ゆっくりだが、実はこっちの方が効率がいいのかもしれない。と思っている。また普段のんびり進んでいる人のもつ穏やかさを感じる場面や、のんびり進んでいるにもかかわらずしっかり成果を出す場面に出くわすと、「のんびり派」の私は嬉しい。

激烈に生きる人は印象的だ。活動も成果もよく目立つ。一方で着実に進んでいく人もいる。目立たないけど確実にいる。どっちにも目を向けて、人生を歩んでいきたい。たまには私だって走るけど。