狭筵

はい

飲酒

前のエントリで書いた歩くのと同じくらいに有る種信頼している行為に「飲酒」がある。
もちろん酒に酔い人に迷惑をかけるのはダメだ。うんこだ。
「飲酒」のどの部分を信用しているかと言うと、それは酔っ払う部分にだ。

私は歴史が好きで、昔の人の営みを想像するのが好きだ。織田信長だとか有名人でも、ギリギリ名の残る人物どちらでもいいんだけど、とにかく昔の人がどのように考え、どのように生き、どのように死んでいったのか、いつも気になっている。
飲酒と言うのは科学的な側面があって、人間酒を飲むと気持ち良くなる。これは個人差はあれど人間であれば大抵の場合そうなる。平成人でも室町人でも、酒に酔う感覚は、多分同じなんじゃないだろうか。


昔と今とでは思想や風習は全く異なる。特に高度経済成長を経てしまった我々は、以前とは隔絶した生活を送っていることは態々言わなくてもいいくらい自明のことだ。だけど。きっと。お酒を飲んで判断力が低下してぐぐっと感覚が狭まるあの「酔い」の感覚だけは、アルコールに担保された化学的反応で、たかだか数百~数千年程度では変化しないものではないかと思っている。

飲酒をすることで、藤原道隆李白なんかと心を通信することができる。名の知らぬ人々も私と同じように時に嬉しさ、時に寂しさを抱えながら酔っていたと想像することができる。数百年前の人々の日記をひも解くと、やはり飲んでいた。仲のいいメンバーで飲んだり、罰ゲームで飲んだり。人ん家で船に乗ってその上でゲロ吐いたり。これはきっと、今週末にもまた見られる光景だろう。