狭筵

はい

バスソルト

私はたまにクソ高いバスソルトを購入し、風呂に入れている。しかしこのクソ高価なバスソルトに対してあまり信用を置いていない。本当に発汗作用があるのか? 本当に保湿効果があるのか? 勿論バスソルト当局もこの事に対して、私が猜疑心を抱いている効能に対してだ、まったく頓着ないわけではない。「疲れたあなたに!」とか書いてある。しかし「あなたの疲れを取ります!」とは書いていないのだ。このようにクソ高バスソルトの効果、延いては入浴の効果の益たることをギリギリのラインでクソソルト当局は攻めてくるものの、ある程度リテラシーがありさえすればそれが絶対ではないことは自明である。そういう怪しい態度を取る限り私はクソルトに対してあまり信用を置かない。

しかしである。私は普段、バスソルトを当局が指示する蓋一杯分だけ入れるようにしている。ある日、別に私は独り者だしそんなの無視していいということに気がついた。別に3杯入れたっていいじゃん。それを咎める妻も居らぬ。ちょっと話は逸れるが、私はコーンポタージュにクルトンが入っていることが、幼少期、一番の楽しみだった。これはさすがに言い過ぎだったが兎に角私はクルトンがことさらに好きで、あわよくばたくさんコーンスープに入れたいと祈念していた。さて、大人になってステーキハウス「ヴィクトリア」のサラダバーに行った時だ。当然私はコーンスープにこれでもかとクルトン(あのパンみたいなやつだ)をぶち込んだ。ぶち込んだ。クルトンを。やった後の満足や後悔や、その後そんなに毎回そのような営為をしなくなることまでを含めて、こうして私はイニシエーションを経たのだ。大人になったのだ。

バスソルトでもそれをやってもいい。私はそう考えた。そこで二杯目を入れる。あまり変化はない、三杯目を入れる。クソ高いバスソルト。無駄ではないのか? モラルに反する。一瞬の罪悪感を覚える。 

変化を感じた。体から何時にない発汗を感じたのである。これはすごい。しかし、しかし。勿論これは本当にバスソルトの効果かどうかは分からない。風呂に長く入っておれば発汗するのは半ば公然たる事実であろう。基本的に私はバスソルトには懐疑主義を取る。しかし。懐疑するもバスソルトは三杯目にして果敢にも私の疑念への挑戦を果たした。

今日も三杯入れる。で汗をかいたわけだ。そして、実際私が風呂場で汗をかいたところで一体どうなると言うのか? と考えたところで私は負けたのだ。ソルトに。いつの間にか、もう疑念の問い立て方が「汗をかく」を前提たしたうえで成り立ってしまっているのだ! 問いがずれていっている。信用を置かないその構造の中で「汗をかく」を認めたうえでの疑惑を形成してしまったのだ。これは敗北である。私の敗北に他ならない。問いのずらしを、本当にバスソルトのせいで汗をかいたのか? にすれば良かったのだ。こうして資本主義の悪魔に魅入られた私はクソ高いバスソルトの奴隷となれり。思考の過ちである。

 

クナイプBソルトGN850

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味の素 おいしいクルトン 250g

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