狭筵

はい

お釣り

お釣りで丁度良い額をもらうために、一円とか五円とか十円とかで調整する。するとお釣りが三六〇〇円とかになり財布の中の小銭が整理される。

この理屈はすげーわかるんだが、だが逆に小銭が無くなりすぎてお釣りが三三八七円とかになってしまう。小銭が増える。

再びそして調整して小銭が減る。

小銭で調整しないと小銭が増え続けて財布を圧迫する。いつかパンパンになって破綻する。

つまりお釣りを調整するという行為は財布をパンパンにしないために行なわれるものだ。

これは洗濯とか皿洗いに似ている。しないとたまる一方になるあれだ。そしてしたところで洗濯や皿洗いが完全になくなるわけではない。持続しないと破綻する。持続してやらないとだめだ。さぼると破綻する。でも完全に払しょくできるものでなく日々その仕事が立ち現われる。

こういうのが私は苦手だ。

はてな題詠「短歌の目」4月

今月も詠んでみました。いくぜ!

 

1.入
港町 歩き見かける 入船町 山育ちには馴染は薄く

 

2.粉
澱粉の水に溶けたか溶けないか 顕かならぬ 薯の神秘よ


3.新学期
新学期 探り合いして 格付ける これらが嫌で 新学期嫌


4.フール
丘の上 笑うフールに 透徹を 求めることも いいのだけれど 


5.摘
ある日には スミレを摘んだ 珍しい 種類と知って 恥ずかしくなる


6.異
異なった互いの爪の話して 手で触れあってまた話して

 

7.花祭り
花祭り 遠未来でも多分やる  三千世界が続いているから


8.あらたまの
あらたまの来経ゆく冬の名残り雪 触れば軟く土に隠れる


9.届け
てめえこの! やるじゃねーか前島よ! 届け葉書よ52円で!


10.ひとつ
夜明け前 動物園から ひとつだけ 謎の鳴き声 都市へぶっこむ 

 

tankanome.hateblo.jp

グレッグ・イーガン『白熱光』

グレッグ・イーガンという作家の『白熱光』という小説を読んだ。弐瓶勉という漫画家の『BLAME!』という作品を読み返した後で、何だかSFの世界に浸りたいと思い、この『白熱光』を手に取った。

 

何が良かったのかというと、訳者のあとがきだ。小説の妙味や、見落としがち・読みたがえがちな箇所に適切に言及がある。私自身あとがきを読んで小説に立ち返り、読みのがしていた要素を再確認できる部分があった。非常に気の利いた訳者あとがきであり、もちろん小説自体も面白かったが、このあとがきも忘れられない体験になった。

 

忙しい時期だけど読めて良かった。

 

 

きのこ3

きのこは不思議で、しいたけとか超うまいし(今日も食べた)、一方強力な毒があるものもある。色も形も千差万別。カラフルなものから地味なもの(しいたけ)、群生するもの孤立するもの、本当に色々だ。そうしたきのこが、今も人の知れないところで、きのこが、どこかの森や街や、とにかく自然の片隅で、人の知らないところで、ひっそりと、きのこが、千差万別に生えたり生えつつあったり、しているのだろう。そんなことを思うと仕事で疲れていても自分のことがちょっとどうでもよくなる。宇宙のことを考えるときもそんな感じになるんだけど、きのこでもそうなる。

言葉

言葉は信用できない。もう少しポジティブな言い方をすると、同じ字面でも文脈や流れで意味が変化する場合が往々にしてあるということだ。

もう眠いからあまり良い例が浮かばないが

 

香山リカ(精神科医)

林公一(精神科医)

 

同じ精神科医でもだいぶニュアンスが違ってくる(と思う)。

 

 

自分や周りの人に対する様々な評価や噂がある。たまにそれが伝言ゲームで独り歩きして、文脈が剥落した「言葉」だけで広まることがある。「誰がああいったこういった」「誰は○○らしい」とかだ。実はこれは危険で、どういった流れで発せられたか知らないまま字面で判断すると、他人への認識をかってに歪めてしまうことになりかねない。

本人とじっくり話す。その時も「言葉」の表面だけにとらわれず、どういう人がどういう流れで言語を発したのか考える。なんだか国語の授業みたいだがこれが重要だと、今日、強く思うことがあった。

回転SF寿司

はま寿司はタッチパネルで注文したいネタを押すと作ってくれてベルトに乗せてくれる。近づくと音が鳴って教えてくれる。

スシローでは食べた皿をダストに入れることで料金を計算してくれる。

このように回転寿司屋はSFだ。食事というものの最先端を行っている。そもそも皿が回ってきてそれを取って、しかも皿で値段が決まっているってのがすでにSFだ。

やがては念じるか何かしさえすれば、皿の上に寿司ネタがダウンロードされる仕組みになるのではないだろうか。電子界の情報から基底現実に形成される寿司ネタ。美味いに違いない。